1984年にイスラエル人の両親の元、ニューヨークで生まれ、イスラエルテルアビブで育ったルース・パティール(Ruth Patir)は、エルサレムのベツァレル芸術デザインアカデミー及びシャアル・ハネゲブのサピア学術大学で教員を務めるアーティスト。エルサレムのベザレル・アカデミーで美術学学士号を取得し、ニューヨークのコロンビア大学で美術学修士号を取得。個人的な経験を通してジェンダー、政治、テクノロジーにおける社会問題など、幅広いテーマを扱う。ドキュメンタリーとCGを融合させてリアリズムを追求する作風でも知られており、その作品はテルアビブ美術館、エルサレムのイスラエル博物館パリのポンピドゥー・センターカディスト財団に収蔵されている他、「Sleepers’」(2017)は、エルサレム映画祭においてビデオ・エクスペリメンタル映画・ビデオアート賞を受賞した。

WAKAPEDIA’S RUTH PATIR & ISRAEL PAVILLON

第60回ヴェネチア・ビエンナーレの開幕を目前にした2023年の10月7日、パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配しているイスラム武装組織ハマスとイスラエルとの間で悲劇が起こって以降、アート界においても大きな騒動が勃発していた。

2024年2月に「Art Not Genocide Alliance」というグループが、「ガザ地区のパレスチナ人に対する現在進行している残虐行為」を理由に、ビエンナーレ主催者に対し、イスラエルを参加国から除外するよう求める嘆願書を提出したのだ。この嘆願書には約24,000人の文化人が署名したが、イスラエル館を代表するアーティストのルース・パティールとパビリオンの共同キュレーター2名は、引き続き参加の意志を表明していた。当初は芸術の自由を尊重するという趣旨で、ビエンナーレの主催者及びイタリア文化大臣もイスラエルの参加を支持していたが、最終的には、ビエンナーレが正式に開幕する数日前に、「停戦合意が成立し人質が解放されるまで、パビリオンの扉を開けない」と発表する形で決着を迎えたのだった。

ワカペディアチームとイスラエル館との出会いは、思いがけない形で起こった。真夏日和の6月某日、私たちはジュデッカ女子刑務所に設置されたバチカン館を訪れた。バチカン館を代表するアーティストに抜擢されたのは、ワカぺディアのインタビューLet’s goの記事でもお馴染みのマウリツィオ・カテラン

ところが、アート愛に胸が高まりすぎたワカペディアチームは、会場に到着してから、入館に必要なオンライン予約をすっかり忘れていたことに気づいたのだ!10代の頃から常連だったミラノのクラブなら、顔が効くかもしれない。でも、ここは刑務所。長い列に並んでいた時、私たちと同様に炎天下で待ちくたびれていた男性が目に止まった。ウディと名乗るこの男性は、どうやら日射病アレルギーらしい。「こうなったら、飲みに行くしかない!」と意気投合し、世界中で知られているカクテル「ベリーニ」の発祥地である、ヴェネチアの歴史的バー「ハリーズ・バー」へ向かった。ヘミングウェイも足しげく通ったというこのバーで、アートについて熱弁していた時、ウディがイスラエル館の主催者の知り合いだということが発覚。これはアーティスト自身に話を聞けるかもしれない!ちなみに今回、イスラエル館のタイトルにもなった代表的な作品「(M)otherland」とは、アーティスト自身が経験した卵子凍結の過程を題材にした、インスタレーションだ。卵子凍結はデリケートなトピックながら、女性性という普遍的で、(メンバーが女性ばかりの)ワカペディアチームにとっても非常に身近なテーマ。こうしてウディとの出会いをきっかけに、現在多くのメディアを断っているというイスラエル館のアーティスト、ルース・パティールへのインタビューが、書面という形で実現したのだった!

 


ワカペディア :
インタビューを引き受けてくれて、ありがとうございます!あなたの子供時代やアーティストになったきっかけ、人生に大きな影響を与えた出来事について教えてください。

ルース: 私は1990年代にイスラエルの首都、テルアビブで育ちました。エンジニアの両親は共働きで忙しかったので、放課後はテルアビブ美術館のクラスに参加していましたが、14歳でアイデンティティ・クライシスのようなものに直面しました。その時、自分が母の気を引くためだけに絵を描いていたことに気づいたんです。そこで母に「もう絵なんて描かない!」と言って、画材を全て捨てました。でもそれから10年ほど経った頃、やっぱり絵を描くことが恋しくなって、エルサレムのベザレル・アカデミーの美術学士課程に入学したんです。

ワカペディア : その後あなたはイスラエルからアメリカに渡り、「外国人」としてコロンビア大学で新ジャンルの修士号を取得しましたね。今回のビエンナーレのテーマである「Foreigners Everywhere(どこでも外国人)」を象徴するかのようなこの経験は、あなたにとってどのようなものでしたか?また、あなたのアートにどのような影響を与えましたか?

ルース: 留学する前は、アメリカのテレビ番組を見て育ったので、英語には自信があったし、どこでも快適に過ごせると信じていました。でも実際にアメリカに来て、初めて「外国人」であることを実感したんです。アメリカの人々はとても勤勉で、アイデンティティを重視するため、移民であることは、私に謙虚さと努力することを教えてくれました。あの時、あの場所にいられたことにとても感謝しているけれど、「ホーム」に帰るのが待ちきれませんでした。


ワカペディア: 
(そんな「ホーム」の顔となる)イスラエル館を閉館するという決断に影響を与えた要因は何ですか?

ルース: 私は2023年9月7日にイスラエル館のアーティストとして任命され、とても胸が高まりましたが、10月7日の悲劇的な出来事とそれに続く残虐な紛争を通して、その喜びはショックと悲しみに変わりました。イスラエル館のキュレーターであるミラ・ラピドットタマル・マルガリスと私は、毎週反戦デモに参加しましたが、状況は悪化するばかりでした。そこで私達は、「停戦と人質解放が合意された場合にのみ展覧会を再開します」と書いたシンプルな張り紙を入り口に掲げ、展示を保留することにしました。私たちと一緒に展示の公開を待ってくれるよう、人々に求めたのです。残念ながら状況の変化はあまり見られませんが、それでも人々が停戦を願い、共に祈ってくれているという事実が、私の心の慰めです。

ワカペディア : なぜ「(M)otherland」と母性をテーマに選びましたか?卵子凍結の経験以外に、インスピレーションを受けた出来事はありますか?

ルース:イスラエルは、卵子凍結に補助金を出している世界で数少ない国のひとつで、30歳以上の未婚女性に対し、国が卵子凍結を推奨しています。他国では裕福な人しか受けられない医療だと思われていますが、イスラエルでは一般的です。それは、「ユダヤ人としてのアイデンティティは母親を通じて継承される」というユダヤ教の伝統と、ユダヤ人国家を継承するためには、ユダヤ人の子どもを増やす必要があるという事が密接に関連しています。

 

2019年に、私は癌のリスクを高める遺伝子変異を持っていると診断されました。医師からは生殖器の摘出を勧められましたが、その前に全額国からの援助で卵子の凍結を受けることにしました。独身の私は、母親になりたいかどうか確信が持てませんでしたが、イスラエル社会ではそのような意思を受け入れてもらえないことが非常に多いのです。そのため、世界中のユダヤ人がイスラエル国家を呼ぶ時の『Motherland (祖国)』に『Other land(他国)』という言葉を加えたタイトルは、この作品にとてもふさわしいと思いました。

ワカペディア : 「(M)otherland」は、10月7日の出来事を受け、イスラエルとハマスの紛争が続く中、構想したそうですね。この状況は作品にどのような影響を与えましたか?

ルース: 紛争による最初のショックから立ち直った後、私は幾つかの新作を追加することにしました。「(M)otherland」では、私の制作活動の中心となる最新技術、特に3Dアニメーションとモーションキャプチャースーツを使用しました。自分自身の動きを特殊スーツで記録し、そのデータを使って、古代レバント地方で発掘された女性像と融合させたのです。最新技術を用いて古代の像に命を吹き込むことで、現在と過去の架け橋となれるよう願っています。

また、短編アニメーション映画「Keening」は、メソポタミア文明に4000年前から今日まで伝わる「Keening」からインスピレーションを得ています。「Keening」とは、女性たちが一緒に悲しみを嘆く習慣です。この映画に登場する、古代文明における見捨てられた女性達の彫像は、長い戦争と流血の歴史の中で女性が経験してきた苦悩や悲しみを象徴しています。女性らしさ、壊れやすさ、そして集団的な弔いという女性の経験の普遍性を映し出すアート作品です。

ワカペディア : 卵子凍結の経験により、あなた自身に何か変化はありましたか?また、そのような経験をした女性として、他の女性に伝えたいことはありますか? 

ルース: まず言えることは、卵子凍結について話すことは必要だと思います。というのも、子孫繁栄に関する科学進歩のほとんどは、女性のために発明されたものですが、時には女性の視点が考慮されていないこともあるからです。例えばピルの導入は、女性が自分の体と生殖に関する選択をコントロールできるようになった革命的な出来事でしたが、それによって女性だけが避妊の責任を負うことになり、一部では女性の健康を考慮していないとの批判もあります。卵子凍結の権利は、健康上の問題を抱えた女性でも妊娠することができるようになるだけでなく、学業やキャリアに専念するために出産時期の延長を可能にさせる為、表面上は女性にとって良いことのように見えますが、本質的には女性に男性と同じような役割を果たすよう、プレッシャーを与えているとも言えます。この結果、女性を依然として男性中心的な秩序の中に閉じ込めているのではないかと思うのです。

 

ワカペディアチームは、手元に戻ってきたインタビューの回答を見た。今日もまだ爆撃は続いている。この混沌とした情勢の中、ルース・パティールは、夢にまで見たビエンナーレでの展示を保留にするという決断を通して、人々の分断された心を一つにしたいという強い願いを表した。そして、彼女は女性として自分自身に問いかける。「私は母親になりたいのだろうか?」

出産は、多くの女性に通じる普遍的なテーマだ。その答えを見つけられないまま、将来子どもを持つ可能性を残した彼女は、自身の経験をアートに反映させることで、現代社会に生きる私たちに、何を大切にするべきかを見つめ直す機会を与えようとしているのかもしれない。そんな事を考えながら、グラスに注がれたペリーニに口を付けた。爽やかなプロセッコの口当たりと、桃の上品な甘さが舌に残った。

 

Edited by: Wakapedia Japanese Team